猫目、狸目、泣黒子

目元に目が無い

近頃、「社会人になってから楽しい事が無くなった」と考える事が良くあった。

結論から言えばそれは間違いだったのだが、折角字数制限が無いのだから順を追って頭の中での思考をここに記そうと思う。

 

社会人になってから楽しい事が無くなったと思う内は、学生の頃を思い出したり、学生と社会人という境界が最も少ないネットの世界に沈み込む事で日々を消化していった。

特に、ネットの世界。家に帰って日時表示のみのスマートフォンを開いては、私の指先は同じアイコンに触れていた。

 

無意識の内に、そのアイコンは自分の親指が最も届きやすい位置にある。

 

そしてこれは意識的に行った事だが、ホーム画面に遷移してからそのアイコンにたどり着くまで、少なくともニ回は画面に触れなくてはならない。

結局、意識的に二重の扉を設けた理由も、余計に開くのを防ぐためだった。

しかしそれは決して、社会に出てからの唯一と言っても過言では無い程の楽しみに依存し過ぎていた事を防ぐためではない。

その依存対象さえ、いわゆる気の置けない人達の環境が変わってきた事を、開く度に思い知らされるのが嫌だったからだ。

 結局、自分自身で二重に閉じ込めた檻によって、段々と何もせず眠る日が増えた。

一時期、ゲームを介して毎日の様に楽しいと思える事も、結局仲間が増えない上に、それ自体あまりネットの世界と両立の出来ない事だったから、なんとなく足が遠のく結果となった。

ネットの世界の友人達と、いっそこのまま社会と切り離して隔離されてしまえば良いのに、と思う。

金銭を生み出す為に、私達は何故、やりたくない事で一日の活動時間の殆どを費やしているのだろうか。

それこそ、大体の人間が稼がなくてはならない、と、強迫観念に晒されて気付かない檻だ。

 

とは言え、果たしてこの気持ち自体は、社会人になったからなのだろうか、と、ふと思った。

実際問題、社会から抜け出したいのは別問題で、精神の衰弱という話で言えば仕事そのものが直接の要因となった事柄は一つもないのである。

 

周りの変化であったり、自分の変化が、噛み合わない事。

それは社会人になったからではなく、環境が変わった時にいつも起こりうる事だった。

恐らく違うのは、大学時代に繋がった縁が、自分の中で特別であった点それのみであろうと思う。

単純に、休日の日中から平日の夜、擬似ナルコレプシーを作り出している私の心の原因は、依存対象に求めていた依存が立ち行かなくなった事に対する苛立ちただそれだけである。

 

そう考えると、趣味に興じようと思ったって仕方がない。私は基本的に、他の人間が居て、その先に自分の好きなものが結びついているからだ。

きっと、好きな人が釣りを好きならば、釣りをするし、好きな人が聴いている音楽ならば、元々聴かなくたって口ずさむ程聞くのだ。

基本的に私のアイデンティティは、皮肉にも、自らの個性でありながら他人に依存しきっている所に特殊性がある。

自らの躰を強化出来ない体質の為、外注の強力な武装で身を固めているのだ。

今は、その武装が古くなって剥がれかけて来ている。心が剥き出しになれば、かすり傷が増えて感傷的になるのも、仕方がない事なのだと言う結論に達した。

 

 

檻が必要だ。

 

武装を外注出来ない場合、いっその事自分自身を隔離しておく為の檻がいる。

自分自身、本当に巡りあわせには恵まれてきたものだと思うが、檻を頼む宛が、無い訳でもない。

この、どうしようもない文章を読んでいる貴方しか知らない事だが、近頃知り合った28歳の女性、大阪府堺市に住んでおり、つまりは同じ都道府県にその身を置いている女性が言うに、私の様な若い男を飼いたい、らしい。

私の事がお気に召した様で、私なら飼われるその資格があるらしい。

働かず、ただ家で私は帰りを待っていれば、良いらしい。

 

檻。例えで言った言葉だが、先程までのどんな檻よりも、最も言葉が表すに相応しい檻が、目の前にある。

私はその檻に興味を示し、店主に話を聞いている。

 

依存先を求めて前へ進みたがる右足が、その檻の中に入るのは、

少し先の未来だろうか。空想だろうか。