猫目、狸目、泣黒子

目元に目が無い

恋人の定義

お久しぶりです。最近は寒い。

 

冬は寒さが一人の身に染みると言うが、周りがそう言っていると思ってなくても余計に寒くなる。

実際恋人がいた記憶自体がめちゃくちゃ少ないのだが、と言うか一人しかないのだが、

何でも話せるような友達としては今までもなんだかんだでメインのコミュニティには居たと思う。

直前と矛盾して申し訳ないが、自分は男女の友情は成立しないと思っている。

多分、相手云々よりも、自分の気持ち的に思う事だ。

大体俺は一人で相手もおらず、言わば「相手にとって私が変に浮気沙汰に巻き込まれる可能性がない」状態。これも一つの、心をある程度許すポイントになっているのかもしれない。

一方、俺側の気持ちだが、相手と仲良くなった当初、相手に彼氏は大体居ないか、知らない。

それが恋人ができたり、居た事を知っても、大概俺と仲良くなって良く話している時点で聞くのは現状の不満が多い。

感覚で何となく、その時にもやっとする事は何故か無い。

ただ、その後相手が別れたら一人になって、その後誰かを好きになった時、妙に焦る。

 

あ、俺の立ち位置が危うい。と思うのだ。

 

結局彼氏がいるいないと言うよりは、自分の立ち位置が無くなるかもしれない時に俺はいつももやもやしている。

昔は結構それが我慢出来なくて、もしくはそれだけお互いを明かした事で相手を好きになっていたりして、めちゃくちゃ気持ちの浮き沈みが激しかった。

昔は、と言う事は今はどうかという話になるのだが、根本は変わっていない。

知る事で辛い道を選ぶのは分かっているが、自分の事を分かっていて俺も相手を分かっている人と話している方が当然だが楽だし楽しいから、恐らくここを抑えていたら普段に支障が出る。

後はもう、この感情を好きとは別の物と思い込むしか無い。

例えば、この関係が続いていた時、自分に彼女が出来たらどうするんだ?と考えた時、多分俺と付き合う子はそういう関係の異性は無理だと思う。

そうするとやはり俺からしても相手の立ち位置は危うくなる事になる。相手がそれを悲しむかどうかは別として。

なので、そういう友達との関係はあくまでお互いの中の足りないものを、なんとなく共有しているから情が湧いているが、本当は好きではない、と思う様にしている。

 

えーー…でもそれは…と思うかもしれないがなんなら俺もそう思っている。もうそれが真実かどうかではなく、そう思わないとまた大切な友達を自分から手放す事になるのだ。

根本の解決法ってあるのだろうか。あったら教えて欲しい。

自分のそういう性格を変えるか、そもそもあんまり深い情報を共有しないとか、そういう人とハナから付き合う気でかかって仲良くなるとか。

この辺りの選択肢はできるなら多分こうなっていないので、水掛け論だと思う。

答えは見えない。

 

そんな感じで大学時代仲良くなっていた子が、「付き合うってなる時に、仲良い友達になっちゃうと恋人になりづらくて、逆にあっちが早いうちから自分の事を好きだったりして付き合うと上手くいかない。ほんとの私の理想は、友達の中にもこの人はずっと仲良いんだろうな、とかなんとなく位置の優劣があって、その異性の中で、この人なら告白してきたら付き合えるな、って人がその気になる事。でもそれを自分から言う事は無いし、そういう相手に限って恐らくそんな関係になろうとはしていない。なんなら彼女いたりするし」という旨の話をしてくれた事がある。深夜2時のサイゼで。何話してんだ。

 

恋人そのものではなく恋人の定義について、悩みがちな俺たちは間違えているのかもしれない、と思う事はある。

そんな理論的に考えるのではなく、大体がああ好きだ!となって、付き合えて、失敗したり、成功したり、また失敗したりする。その経験の中で成長するのが恋愛だ。

そうであるはずのものを、価値観が違う事を恐れ、自分のカードを付き合う前から全て明かす勢いで関わり、安心して最終局面に挑む時にはもう相手は「もっと知りたい」ではなく「知り尽くした」上での判断基準となるのではないかと考えている。

全教科100点ならいいが、苦手教科の点数を伏せて相手に予想させる事ができたら、

難関校にも合格できてしまうかもしれない。

ここまでの文章を読み進められる人間なら、そんなズル良いの?と思うし、合格した後勉強ついていけなくなるんじゃないの?とも思うだろうが、

現に今まで愚痴や相談を聞いて、続いた人、続かなかった人は当たり前の様にどちらも見てきたはず。

そこにルールは無いし、続かないなら意味が無いと思うならもう、どうしようもない。

それでも相手を手に入れたいという強かさが俺たちの嫌いな人間のやり方で、

それがなんの間違いか、そのままゴールしてしまう事もあるのだ。

 

我々は恋人の定義をつい、厳しくしてしまっているのだと思う。

良く受験勉強も道のりを登山や競走に例えられるが、受験を例に出したついでにそれに当てはめると、

設定したコースが険しい道のりなら、それを歩く自分もまた、やはり苦難に陥るだろう。

それを乗り越えた景色が、車で車道を使い登り切った人間と同じだとしても。

 

ここで終わろうと思ったがそれでは後味が悪い。

今の楽しさではなく将来の事の話で申し訳ないが、

それを乗り越えた後は、乗り越えたからこそその景色、相手を深く愛せる、許せる事はあるのかもしれない。

登っている中間地点のゴールとして、恋人ができた場合はまだ登る必要があるからどうなるかはわからないが、

結婚など、本当のゴールつまり山頂まで自分の足で登った人間は、その後の人生の下山が二人三脚でも、きっと慎重に強くその地を踏める。

その時は、車で行った奴が転げ落ちた道を二人で踏みしめて、笑顔で支えあって欲しい。