猫目、狸目、泣黒子

目元に目が無い

時限爆弾

悪循環と言うものは止めたくても止められない。

あ、これダメだぞ、と思った時にはもう遅いのだが、そもそもそう思う前からこうなりそうだと言う予想は実はある。

きっとその時からもう時間の問題で、いつか周りの環境が変わっていって、それが許せなくて、病んで当たってムキになって投げやりになって慌てて元に戻って歪んでいく道は決まっている。

そうして思い通りにいかない事に対して腹が立って、もういいか全部やめちまえ、と全てを消そうとする。でも、今までの経験からそれも逆効果だと言う事も分かっていて、分かっていて全てを消し切れず中途半端に関係性を変えようとしたりして、いよいよ終わりが見えてくる。

 

受け取り側からすれば本当に意味の分からない対応の変わりように戸惑うしかないし、俺の心の中が読めている訳でも無いのに察することなんて出来るわけもなくて、

ただそこには俺そのものに対する不信感が残り、あ、面倒臭いなこいつ、って思った時にはもう相手は冷め始めている。関係性が切れても良いと思っている。

そして、俺は病みをいよいよ抑えることなく、相手に対してこれでもかとばかりにぶちまけるのだ。

それは誰も得をしない本当に害でしかない行為で、例え冷めていたとしても相手も少なからず嫌な気持ちを抱かざるを得ないだろう。

 

これは、言うなれば目に見えている時限爆弾。

時間に余裕があるときはお互いその交友関係に対してなんら危機感を覚えない。何故なら始めはカウントダウンの音も鳴らないし、タイマーも見えないから。

それがいよいよ爆発の刻が近付いてくると、心をしまい込んでいた蓋が急に開いて、そこには既に残り僅かな時間が表示された爆弾が、ピッピッと奇妙な位に規則的な電子音を鳴らしている。

 

慌ててももう遅い。逃げたって爆風で飛んだ破片は当たるんだから。

 

爆発してしまった自分はズタズタになって、爆発した部屋ごと引き払うしか無いのだから。

 

心は見えない。見えないからこそ恐ろしい。

 

心を近付けて始めて目に見える爆弾なんて、タチが悪すぎて嫌になってしまう。

 

しかもそれを常に持ち歩いているなんて、一体誰に言えるんだろうか。

 

誰が受け入れてくれるんだろうか。

すっ、とする事

「死にたい」と言う人ほど死なないと言うが、これだけ言っていてなお「いつか自分で死にそうだ」と言われるのは、心底納得が行かない。

それが、今でも普段から死を望む様な発言をその人の前ではしておらず、心の闇に蓋をして、普段には見せない努力をし始めてからも時折言われるのだから尚更だ。

どこかで、滲み出ているのかもしれない。

 

そもそも「死にたい」人は、本当に死にたいのだろうか。

何故、「死にたい」のだろうか。

明るい未来が見えず、もしくは未来がどうであれ、今という現状の打破が厳しいと自覚しているから「死にたい」のだろうか。

死をもって、先にあるかもしれない幸せより今からの解放を選ぶという事である。

じゃあ、それは100%そちらの「死にたい」気持ちかと言われれば、未来がわからないし、そもそも未来の幸せが起こればそのせいで今の辛さは霞んでしまう事も分かっているかもしれない。

だから今だけなのは分かってるけど、でも辛いから死にたくなってしまう。という、葛藤ゆえの「死にたい」かもしれない。

「死にたい」は、恐らく刹那的である。

その刹那が死に寄っている時、俺は死ぬ事が出来るのだろうか。

また生に寄っている時、俺はもう二度と死に寄らないと誓えるだろうか。

それらはどちらもきっと出来ないし、死ぬも生きるも踏ん切り次第ではないかと思う。

ただ生きる方が、何もせずとも叶えられる事だから、こうして生きている。

無駄な外傷は付けない。それは死では無いから。

薬は飲まない。死を感じる事なく死んでしまうから。また、死なないかもしれないから。

ただ、生きている。日々の楽しみも苦しみも引っくるめて、思い出や記憶に残っている。

しかし過去の事に対し、興味は全く、無い。

ただ今居る人達と話す時、思い出話は話題を作らずとも記憶で話す事ができるので、それは良い。

どうやら、自分で出す話は相当面白く無いらしい。

皆、結末を待つ。結末の無い話だと俺は分かっている。俺自身がそういう話をされたら、質問や相槌で繋げているから、相手の返答を予想してついそんな話しか出来なくなってしまう。

結果、ある程度結末となる様に嘘をつき、なんとなくあちらに話の終わりを察してもらう事がある。ただそれは、面白くは無い。

相槌は得意だ。人の話を聞く姿勢が大事で、相手の共感を誘う言葉は効果覿面である。

突っ込みを入れる事も多々あり、少々癖がある様で、それも幸い受けている。

もう人が話してればそれで良いじゃないか。という様なスキルの寄り方をしている。

とにかく他人ありきの理論展開が得意で、他人の出したアイデアに対し昇華させる様な事を出す事に苦悩は無い。

 

自我が恐ろしく無いのだ。

本当になんでもいい。してもしなくてもいい。動いても動いてなくてもいい。楽しくても楽しくなくてもいい。

楽しいと、そのあと楽しくないので、満足の度合いは変わらない。

それでもする事があるのは、・生きる為にやらなくてはいけない事、・人が好きで話題になる事、・する事によって人に見せられる場が有り、評価を得られる事、だからだ。

 

ただし三大欲求のみ、そこから外れる。

俺は別に可愛い子を好きになっているのではないかもしれない。本能からくる脳の麻痺かもしれない。好きという感情は全くないのかもしれない。それはただの独占欲と嫉妬で出来ているだけかもしれない。

食が失せているのも、店に行く時は平気で食べるのも、美味しいものを求め過ぎてコンビニや弁当が純粋に欲を満たせなくなっているからかもしれない。

ずっと昔から、いつになっても眠りたくなくても眠ってしまうのは、やはり、その欲求の方が上なのかもしれない。約束に寝遅れてしまったり、電話に出る事が出来なかったりして、寝た事を後悔しているのも、独占欲を満たせなくなる焦りからなのかもしれない。

 

独占欲は、自我の中に一つだけある自分の意思かもしれない。

自我が無いから、死にたいとは言っても死ねない。

依存できる誰かが殺してくれる時は、喜んで死ぬかもしれない。

そうでなくても、死が訪れたら、後悔なく死ぬかもしれない。

とにかく、割と全体的に気にしている振りを一応しているだけで実は全然何事にも興味はなく、欲求から来る慈愛と優しさだけで、その対象には何も思っていない。その方が自然である。

 

小さい頃、祖母にもらったおもちゃが壊れる夢をよく見ていた。

赤い橋の上で、おもちゃを自分で叩きつけて、壊れたおもちゃを見て悲しくなっている自分が居る。

 

独占欲が満たされない時、よく今周りにあるものを壊す想像をする。

皿を割ってみたりする。まだ使える物を壊してみたりする。

人間関係の中で、近しい人を心無い言葉で傷付ける想像をする。

共感力が高いのならば、こう言えば少なからず心に重たく響く靄が残るだろうな、という想像をする。

信頼が高い為、良く相談を受けるが、例えばこの秘密をバラせば、ここの関係は少なからず気まずくなるな、と考えたりする。

テロが起きれば、起こせば、通り魔があれば、行えば、火災があれば、火をつければ、どんな感じか、どういう悲しい事が起こるか。

 

その時、鏡に映った俺は、真顔ながらも心がすっ、と、していると思う。

それだけ

もうこういう変な暗い気持ちを文字にする気もあんまりおきなくなってきた

間が悪い、一人でいくつも取る事は出来ない、でも絞った一人は一番は俺じゃない

今が面白くないのではなく、過去からの積み重ねでこうなっている

今を辞めたいんじゃなくて、全部を辞めたい

それだけ

身体-腰の減算法

またしても、休日が終わる。

 

果たして俺は、これまで何度休日を終えたのだろうか。

 

長い休日があった俺は、何をしていたんだろうか。

 

夏休みの終わりに、宿題をまとめてやった思い出はあなたにあるだろうか。

そうで無くても、どこか別のタイミングで追い詰められてからやっと重い腰を上げてやるべき事を慌ててやる事になった人は多いと思うが、

やりたい事もまた同様に、腰の重荷になっている人達はどれくらい居るのだろう。

それを持ち上げ挑戦した人、成功した人達もまた、この世には沢山居るのに、それを羨望の眼差しで眺めているのに、どうしてこの腰は持ち上がらないんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頭の中では、ギターを握る俺が居る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カメラの前、息を呑む程に俺ではない俺が居る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺が居なくとも、俺が生み出した物が在る。

 

 

 

 

 

 

 

 

その世界で、自他企業問わず知られる俺が居る。

 

 

 

 

 

 

俺そのものの、誰もが知りたがる価値観が在る。

 

 

 

 

 

それを、言葉にしてメディアに伝える俺が居る。

 

 

 

俺を見て、感動する人が居る。人達が居る。

 

 

触発されてまた新たな物を生み出す人が居る。

 

俺が刻まれた時代が在る。

 

俺の事を理解されて居る。

 

俺がこの世界に必要になって居る。

 

俺がどういう人間か、皆わかっている。例えわからない事があっても清濁構わず知ろうとする人ばかりいる。

 

 

 

 

 

知られる事に苦悩する贅沢な俺が、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

居て欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

居て欲しいなぁ、って、めちゃくちゃ思う。

 

 

 

めちゃくちゃに思い過ぎて、腰の重荷がもう持ち上がらない。持ち上げた事もない。ある程度の重さなら立ち上がれは後はなんて事はないが、きっと立ち上がるのすら精一杯で、立ち上がってもまたすぐに尻餅を突いてしまうのだ。

そう思うと、持ち上げる気すら起きなくて、終ぞ今まで一度も持ち上げなかった。

少し降ろそうと思っても、腰に付けた時、なんでもかんでも乱雑に付け過ぎて、絡まって取れない。

降ろして一つに集中したいのに、できない。

休日にやる事と言えば、時折付いている荷物に触れてみて、その質感を確かめるくらいだ。

なんなら文章をこうして書いている今も、結局どこにこれを落ち着けたいのか分かっていない。

ただいつも、知って欲しい。俺を知って欲しい。俺を知ってもらう為の表現は一番何が良いのだろうと考える。

知って貰った上で理解してくれるのはどんな表現方法なんだろうと考える。

文字では伝えきれていないもどかしさと、文字の魅力を活かしきれていない自分を、人の作品を見て良く思う。他の物でもそうだ。

あの何気ない描写も、後のシーンの為のピースで、

あの意味のわからないと思っていた歌詞も、人となりを良く知るファンからしたら一つのメッセージで、

ただ聴いていたメロディも、緻密に組み込まれた音や楽器の組み合わせで、

全部全部今ある作品達は俺の想像を遥かに超えている。

近しい人間が表現する何かであっても彼ら彼女らのテーマがある。

そのテーマとは一体全体自分は何だ?

俺自身の主題を決めずして、どうして表現が生まれようか?

そもそも俺にはやりたい事なんて無いんじゃなかろうか。

 

……実際には、与えられた休日が終わる事は悲観すべき事ではない。

与えられた休日が無駄に終わる事のみを悲観している自分が一番矮小である事を悲観すべきなのだ。

気付くべきだ。何もしなかったのではない。何の為に何をするかすら分かっていない癖に、腰が上がるわけがないのだ。

 

よく見たら、俺には上げる腰も無かった。

重荷なんて、最初から一つも付いていなかったのだ。

確かに絡まった荷物が沢山周りにはあるが、それらは俺の身体とは繋がっていなかった。

 

それを見て、慌てて繋げようと手を伸ばしたが、こんな細い手では重たくて持ち上がらないし、付けて踏ん張る為の腰はどこをどう見渡しても無い。

 

ベッドの上方には、自分で描いた夢の落書きが天井にある。起き上がれないが故に仰向けの自分の景色はいつも夢の自分だ。

 

 

残念ながら、休日は終わらない。

 

 

恋人の定義

お久しぶりです。最近は寒い。

 

冬は寒さが一人の身に染みると言うが、周りがそう言っていると思ってなくても余計に寒くなる。

実際恋人がいた記憶自体がめちゃくちゃ少ないのだが、と言うか一人しかないのだが、

何でも話せるような友達としては今までもなんだかんだでメインのコミュニティには居たと思う。

直前と矛盾して申し訳ないが、自分は男女の友情は成立しないと思っている。

多分、相手云々よりも、自分の気持ち的に思う事だ。

大体俺は一人で相手もおらず、言わば「相手にとって私が変に浮気沙汰に巻き込まれる可能性がない」状態。これも一つの、心をある程度許すポイントになっているのかもしれない。

一方、俺側の気持ちだが、相手と仲良くなった当初、相手に彼氏は大体居ないか、知らない。

それが恋人ができたり、居た事を知っても、大概俺と仲良くなって良く話している時点で聞くのは現状の不満が多い。

感覚で何となく、その時にもやっとする事は何故か無い。

ただ、その後相手が別れたら一人になって、その後誰かを好きになった時、妙に焦る。

 

あ、俺の立ち位置が危うい。と思うのだ。

 

結局彼氏がいるいないと言うよりは、自分の立ち位置が無くなるかもしれない時に俺はいつももやもやしている。

昔は結構それが我慢出来なくて、もしくはそれだけお互いを明かした事で相手を好きになっていたりして、めちゃくちゃ気持ちの浮き沈みが激しかった。

昔は、と言う事は今はどうかという話になるのだが、根本は変わっていない。

知る事で辛い道を選ぶのは分かっているが、自分の事を分かっていて俺も相手を分かっている人と話している方が当然だが楽だし楽しいから、恐らくここを抑えていたら普段に支障が出る。

後はもう、この感情を好きとは別の物と思い込むしか無い。

例えば、この関係が続いていた時、自分に彼女が出来たらどうするんだ?と考えた時、多分俺と付き合う子はそういう関係の異性は無理だと思う。

そうするとやはり俺からしても相手の立ち位置は危うくなる事になる。相手がそれを悲しむかどうかは別として。

なので、そういう友達との関係はあくまでお互いの中の足りないものを、なんとなく共有しているから情が湧いているが、本当は好きではない、と思う様にしている。

 

えーー…でもそれは…と思うかもしれないがなんなら俺もそう思っている。もうそれが真実かどうかではなく、そう思わないとまた大切な友達を自分から手放す事になるのだ。

根本の解決法ってあるのだろうか。あったら教えて欲しい。

自分のそういう性格を変えるか、そもそもあんまり深い情報を共有しないとか、そういう人とハナから付き合う気でかかって仲良くなるとか。

この辺りの選択肢はできるなら多分こうなっていないので、水掛け論だと思う。

答えは見えない。

 

そんな感じで大学時代仲良くなっていた子が、「付き合うってなる時に、仲良い友達になっちゃうと恋人になりづらくて、逆にあっちが早いうちから自分の事を好きだったりして付き合うと上手くいかない。ほんとの私の理想は、友達の中にもこの人はずっと仲良いんだろうな、とかなんとなく位置の優劣があって、その異性の中で、この人なら告白してきたら付き合えるな、って人がその気になる事。でもそれを自分から言う事は無いし、そういう相手に限って恐らくそんな関係になろうとはしていない。なんなら彼女いたりするし」という旨の話をしてくれた事がある。深夜2時のサイゼで。何話してんだ。

 

恋人そのものではなく恋人の定義について、悩みがちな俺たちは間違えているのかもしれない、と思う事はある。

そんな理論的に考えるのではなく、大体がああ好きだ!となって、付き合えて、失敗したり、成功したり、また失敗したりする。その経験の中で成長するのが恋愛だ。

そうであるはずのものを、価値観が違う事を恐れ、自分のカードを付き合う前から全て明かす勢いで関わり、安心して最終局面に挑む時にはもう相手は「もっと知りたい」ではなく「知り尽くした」上での判断基準となるのではないかと考えている。

全教科100点ならいいが、苦手教科の点数を伏せて相手に予想させる事ができたら、

難関校にも合格できてしまうかもしれない。

ここまでの文章を読み進められる人間なら、そんなズル良いの?と思うし、合格した後勉強ついていけなくなるんじゃないの?とも思うだろうが、

現に今まで愚痴や相談を聞いて、続いた人、続かなかった人は当たり前の様にどちらも見てきたはず。

そこにルールは無いし、続かないなら意味が無いと思うならもう、どうしようもない。

それでも相手を手に入れたいという強かさが俺たちの嫌いな人間のやり方で、

それがなんの間違いか、そのままゴールしてしまう事もあるのだ。

 

我々は恋人の定義をつい、厳しくしてしまっているのだと思う。

良く受験勉強も道のりを登山や競走に例えられるが、受験を例に出したついでにそれに当てはめると、

設定したコースが険しい道のりなら、それを歩く自分もまた、やはり苦難に陥るだろう。

それを乗り越えた景色が、車で車道を使い登り切った人間と同じだとしても。

 

ここで終わろうと思ったがそれでは後味が悪い。

今の楽しさではなく将来の事の話で申し訳ないが、

それを乗り越えた後は、乗り越えたからこそその景色、相手を深く愛せる、許せる事はあるのかもしれない。

登っている中間地点のゴールとして、恋人ができた場合はまだ登る必要があるからどうなるかはわからないが、

結婚など、本当のゴールつまり山頂まで自分の足で登った人間は、その後の人生の下山が二人三脚でも、きっと慎重に強くその地を踏める。

その時は、車で行った奴が転げ落ちた道を二人で踏みしめて、笑顔で支えあって欲しい。

愚か痴れ者

気持ちの沈みが治らない

今回はなんだ 毎回原因があるわけでも無いが解決する様な良い出来事もない

何をどうしたらお前は満足するんだ

全てに腹が立つ時期だ

わかっている様な口で都合の良い毎日の話し相手がいる女

恋している自分に酔って俺にはそれが満たされない時だけ話しかけてくる女

道行く可愛い子 言葉を交わせない日々

そんなしがらみと離れた男の友人では、少し満たされない自分

何でこんな風に生まれたんだろう

毎度思う事だが、確実に損だ

損して生きている

理不尽極まりない

俺を育てた親じゃない

生まれ持った性根が邪魔だ

どうしたって多分俺は我が道を行けない

今の仕事もきっと、想像しているより上手く行く事はない

そこには向き不向きがあって、分かっててそこに立っているのだから

逃げたいなら逃げるしかないが、

逃げた先にも何もない

行き着く先がない

行きたい場所に行くには手段がない

その手段を勝ち取る努力もない

時間もない それに割くべき時間は既に通り過ぎた無為な日々だ

どうしようもない事がどうにかしたい事になると心は抉られるように痛い

その理不尽さが腹が立ってしょうがない

激情に駆られて前が見えない

そのままベランダから落ちて死ねば良い

昨日見た明晰夢が、身体ごと動いていれば

俺は空を飛びながら死ぬ事ができたのに

欠実

最近、文章も書けなくなってきた。

なんとなく書き始めたら大体書けそうな心持ちにはなるのだが、まあ別に書くもんでもないかと思ってしまう。

基本的に何か作りたい、見てもらいたいと言う気持ちよりも、

才能の無さを感じてそもそも作らなくなる事が多い。

努力なしでは実を結ばないのに、結んでもいない実の味ばかり気にしている。

苦労して時間をかけて若木から育ち、実を結んで初めて次の新しい種ができる。

そのサイクルを行う事なく、若木を踏み潰してしまう。

結局全部妥協で、文章なら書ける→物語は書き始めると終わりが見えず、また書こうとして矛盾や無理に気付いてしまい、長過ぎて続かない→歌も好きだ 歌詞で見せよう→曲が作れない

こういった具合で、大抵妥協に妥協を繰り返し、その先に待つのは無だ。

やはり書くなら本願である物語、文章なのだ。

実を結ぶまで、その実が不味くとも水をやらなくてはならない。

案外、美味しいかもしれない。

実の味の上には、人の味覚という、差異のある結果が待っている。

どうせまた、こんな事を思っても諦めるのは目に見えているが、

一応書き残しておこうと思う。

無を生み出しているのはあくまで自分自身だ。

このままでも、生活は動いていってしまう。

何もないまま、終わるのだ。