猫目、狸目、泣黒子

目元に目が無い

反復時間泥棒

ゲームをしていると時間を忘れられる。

現在はひたすらに時間泥棒をして来るゲームを二つもしているので、いよいよ時間が足りない。

人間の身体は不思議なもので、私は目覚ましを二度寝用に早い時間にもセットしているのだが、

1時までゲームをすると、必ず起きられない。

よし、早く目覚めて眠気もそうでもない、これはいけるぞと思った時にはもう、いつもの起きる時間に変わっている。

0時に通常の生活をして寝た日は、起きられる事も多々、ある。恐らく一時間の差ではなく、習慣がいかに身体に強く染み付いているかが分かる。

同じゲームをして、同じ時間に眠って、

同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、

同じ席で仕事をして、同じ様な時間に帰って、

また同じゲームをして、同じ時間に眠って。

 

あと何回、この文章をコピー&ペースト、できるだろうか。

 

浴室とラジオ

曲を作っていたから全然書かなかったけど、作らなくなるとやっぱりどこかで想いを落としたくなる。

どうでもいいライン通話、相手が眠った後にスピーカーで音楽を流すと、

ラジオ音源みたいなノイズ混じりで曲が聴こえた。

脱衣所だけ明かりがついていて、薄暗い浴室の中、ラジオみたいな音を聴いている。

今が何時かもわからない不思議な感覚が気持ち良い。

 

変えが効く何かになりたくないのに、その為の自分を作る努力をしないから、

余計に想いと現実のギャップは埋められない。

 

心を本当に開いたくらいが伝わる様な言葉が欲しい。

もっと綺麗に、でも明け透けに伝えられる様な言葉ってあるんだろうか

そのくらい暴露すると、相手が当てられて参ってしまうくらいの

強さが欲しい

難しい

 

それはとっても難しい。

夜の方舟

空っぽの夜に、流し込む歌が 枕とシーツ 溢れた雫で濡らして、

飾った言葉は、塗り込んだ嘘で腐敗して行くのだろう。

 

 貶されても 現在は捨てて輝く夢の朝を 天上で

見たいだけ

 

遊覧船に飛び乗る 馬鹿者

叢雲を泳ぐ人達の 純愛

船上9cm 輝く月光

眠らない世界から、逃避行さ。

信頼

どこまでも嘘が本当にならなくて、信頼できる人って人生で何人いるんだろうか。日々暮らしている中で、どうしたってどこかには騙さなくちゃいけない事や、隠さなくちゃいけない事があって、

お互いの腹の内を探りながら、両者の落とし所で上手く関係を築いている。

そんな中で、そんな自分もまた自分で、心を開いて笑ったり落ち込んだ気持ちを隠さない自分も自分として受け止めてくれる様な人は、何人いるんだろうか。

心を曝け出し過ぎても、それはそれで対応が面倒臭いだとか、それを受け止める側の気持ちにもなって欲しい、と

本心に当てられた側の人間の不満が出てきてしまえば、申し訳なさから今後本心を隠したり、我慢せざるを得なくなってくる。

流石に心を曝け出すのが毎回続くのは信頼では無く依存だと思っているしそんな不満が出てくるに違いないので、

普段という土台があった上での辛い気持ちを打ち明けられる関係、と言った方が正しい。

何人いるんだろうか、と問いかけたが、多分そう言われてみて浮かべてみれば確かに少ないだろうと思ってくれるかと思ってそう言っているし、別に人数は主題じゃない。

そういう人が1人でも居た時、その人と話している時の安心感や、心の荷を降ろしているあの感覚が好きなのだ。

平日でも休日でも、何かしら気を遣っている毎日があって、全てが満足な事は無いと思う。

仕事をしている時、上司や同期、完全に気を許しているか。

家庭に戻ったって、夜遅くなりご飯を作って待ってくれていたのを忘れてまた、小言を聞かされ受け流すのか。

友人の立場も変わり、学生の頃の様に気兼ねなく話すことも少なくなった、とか。

日々営業、私達は何かしらを背負って生きている。

だからと言って1人の時間は対話する相手が居ないから、心の荷を降ろしたって別に軽くなった事を実感する事はない。

背負ったまま椅子にでも座って、荷物の重さを感じなくても良い場所で落ち着いているだけだ。

誰かと想いを共有しながら、荷物を降ろして話しているからこその安心感がある。

ただ、毎日誰しもにそうであればそれが当然になってしまうのが人間の欲深さで、

日々の中、嘘を吐いて塗りたくって作った物を抱えているからこそ、余計に邪魔な物を取っ払った本当の気持ちが大切になる。

あなたにはそんな気持ちを共有できる人が何人いるんだろうか。

良いも悪いも酸いも甘いも、両方抱えて生きていく中で、

抱えた物に隠れた心を、最後は笑いながら手放して見せられる様な人に、もっと出会えたら良いなと思う。

魔女の鏡

わかるりんぼんちゃんと申しまさ!よろしくでさ😉

ほんまに?いや何をわろとんねんアホか

 

ネット世界において、図ってか図らずか、いつの間にか自分とかけ離れた自分のキャラがそこに居る。

現実でもあり得るとすれば、本当に好きな異性と一緒になった時や、

自分の子供や犬猫など、寵愛対象に対する時。

とても普段の自分の口と同じ物を使用して居るとは思えない言葉がつらつらと出てくる。

実際、りんぼんという愛称はネロのものであるし、〜でさという喋り方も模倣をしようとした結果のキャラクターであり、自分の言葉ではない。

文字媒体ではいくらでも、そういう事を出来てしまうのだ。

困るのは、そこから声を発する時。

そうなってくると、自分自身の聞き慣れている声から、聞き慣れない言葉が聞こえてくる事となる。

それをどう思うかだ。

 

まず文字で仲良くなった時、なるべく現実との差を埋めようとしていたが、わかるりんぼんちゃんに関しては完全に逆をいっていた。

マスコットキャラクターの様な可愛さを持ち合わせた、電球の怪物。

電球の怪物は、思いの外気に入られた。

いよいよそのキャラから仲良くなる子も増えた。

ツイッター、ライン、実際の声にもそれは侵食していった。

こうなるともう、完全にもう一人の自分の人格である。

結果、私の呟きは関西弁とりんぼんのハイブリッドをよく使う様になった。

〜〜よ という語尾は、〜でさと言う普段でも使わない様な言葉と〜やんと言う関西弁の語尾の差異を埋めようとした結果だ。

わかるりんぼんちゃんは、私も好きだった。

ここで触れる話を少し戻すが、わかるりんぼんちゃんという存在からそもそも始まった人達は、

結構性別がどうとかそういう次元にない、ネット特有の距離感を持てている交友関係にある。

その時、私はどうしても元々の自分のみを出す事が出来ず、わかるりんぼんちゃんを土台に交流をしているのが現状である。

その時、私は魔女の鏡に出会うのだ。

配信をしている時、聴いている時、とにかくわかるりんぼんちゃんが自分である時に、

ふと手を洗いたくなったり、歯を磨きに行ったりする。

洗面所の鏡に映っているのはわかるりんぼんちゃんではなく、本来の自分なのだ。

真の姿を映す魔女の鏡の様に、突然それは意識の外から現れる。

なんで私は電球の怪物では無いのだろう。

いっそせめて、その可愛らしさが似合う女の子では無いのだろう。

いつの間にかある数場面においてのみ、人格が乖離している気分になって仕方がないのだ。

 

だが、本来私は私。個性は全て私だ。

どんなに乖離していても、わかるりんぼんちゃんも自分だと思えて仕方がない。

考えてみれば配信の際、話している正面の画面には、アイコンであるところのわかるりんぼんちゃんが映っている。

思わなくて良い事を思わせる魔女の鏡は、偽りの姿を見せ、人格を形成したこの小さな機械の方なのかもしれない。

独力の壁

曲を作りたい。

 

単音のメロディに歌詞を付けて、それを歌う事は誰にでも出来る。

それに対し楽器の伴奏を付ける為の、楽器に対する素養が足りない。

良くDTMを嗜む人で、楽器は全く弾けないけど曲を作っている人がいるが、あれは一体どう言う原理で音を構成しているのか見当もつかない。

そのDTMを使いこなすまでのプロセスを教えて欲しいのだ。

道が長くても道筋があれば如何様に動いていけば良いのかは分かるが、

道の終わりもわからない上に、どの道を進んだら良いかも分からない場合、

試しに走ってみてそれが正解であれ不正解であれ、分からないから進んだ気にもならず、元に戻ってしまう。

結局、毎回作りたい情熱が湧いた時に、なんとなく触ってみて終わっている。

 

そこで道を探る為には、目新しさと動機が、少なくとも私には必要である。

前回、第一歩を踏み出した気がした何曲か。

あれはきちんとテーマが決まっていたから、完成させたいと思う気持ちも強かった。

無駄にメロディと歌詞の完成度があれば、関係のある人達は面白いと思ってくれるし、

何かしら関わってくれるから。

 

そもそも音楽を作る人達も「音楽を作りたい」と言う気持ちを強く持てる才能でもない限りは、

何か伝えたい事があって、それを音楽にすると言う形で世に表現しているはずだ。

とにかく私は自意識が非常に低く、どちらかと言うと他人が絡んで初めて動機になる。

 

前回は、他人のテーマを歌詞に落とし込める事で、表現したい事を実現した。

しかし作曲の限界が訪れてしまった。

よく分からない。多分音感は元々無いのだろう。幼い頃のピアノの嗜みが、本来無かった相対音感を引き上げてくれているからなんとかやっていけている。

本当に、音楽を作れる人は尊敬するし、仕組みがわからなくてもやもやするが。

 

今回、この人が歌ったら面白いとか、様になるとか、そう言う事も観点に入れてみよう、と思っている。

そもそも、曲を作る前にコード進行から考えた方が自分にとっては良いのだろうか。

毎度毎度、曲に伴奏が付けられないのは、元々のメロディに引きずられ、そのままメロディ通りの音を当てようとしてしまう所にもある。

だから途中、伴奏だけ作ってラップ調での構成も考えた。実現には至っていない。

どうすれば良いのだろうか。考えが足りないのだろうか。

沢山曲を聴いて、ノウハウを掴んでいくしか無いのだろうか。

 

まるでスランプの様な物言いだが、スタートラインにすら辿り着けていない。

休日を返上し、私は苦しむべきだろうか。

その苦労が身を結ぶのであれば、喜んで苦しみたい。

そして誰か、他力本願で申し訳ないが、私を導いて欲しい。

名は体を惑わす

私の名前は少々変わっている。

 

両親曰く、主に父親曰く、「初めに生まれたのが長男でも長女でも、漢字を変えて同じ名前にするつもりだった」と言う。

実際どちらかと言うと女の子寄りな名前で、名前に当てる漢字二文字の、二文字目の漢字の人偏を付けるか付けないか、その一点のみで男女を区別し、どちらの性にも対応しようとしたらしい。

 

本来、この名は長女に付けられるべきだった。

しかし数十年前、私より何歳年上なのかもわからないが、お腹に宿った私の姉は、産まれる前に死を迎えた。

《長男でも長女でも付けるつもりだった名前≫

《小さい頃、よく女の子の名前と間違われていた記憶》

《妹が生まれる前からあった女の子のフィギュア》

当時この辺りの事実を知った時は、妄想や考え事が好きな私にとって、これほど偶然な程にピースが合う出来事が、まさか自らの出生に潜んでいたとは思いもしなかった。

人偏による違い、と言うのもなんだか偶然にしては気分が悪い。

私の名前から抜き取られた人偏は、そのまま私の死んだ姉を表している様ではないか。

 

これは考え過ぎで、所謂「完全に作者は何も考えていなかったが、考察をした受取り側によって複雑なバックグラウンドが生み出されたパターンの作品」の様な物なのだが、

偶然でもここまで繋げられるのが一番気持ちが悪い事だと思う。

私の性格や、考え方も、違う名前で生まれてきただけで違ったかもしれない。

 

体を表す名は、人間の生活に寄り添っていた自然や動物が、その性質が判明してから名付けられたから体を表すのだ。

人間というものは、その個人名は名前の様に生きてくれる事を願っていたり、名付け側の好みで付けられる。

本人ではなく、名付け親の意志が反映されている。

名の体に惑わされ、自分の本質を見失う人間は少なくないのかもしれない。