猫目、狸目、泣黒子

目元に目が無い

身体-腰の減算法

またしても、休日が終わる。

 

果たして俺は、これまで何度休日を終えたのだろうか。

 

長い休日があった俺は、何をしていたんだろうか。

 

夏休みの終わりに、宿題をまとめてやった思い出はあなたにあるだろうか。

そうで無くても、どこか別のタイミングで追い詰められてからやっと重い腰を上げてやるべき事を慌ててやる事になった人は多いと思うが、

やりたい事もまた同様に、腰の重荷になっている人達はどれくらい居るのだろう。

それを持ち上げ挑戦した人、成功した人達もまた、この世には沢山居るのに、それを羨望の眼差しで眺めているのに、どうしてこの腰は持ち上がらないんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頭の中では、ギターを握る俺が居る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カメラの前、息を呑む程に俺ではない俺が居る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺が居なくとも、俺が生み出した物が在る。

 

 

 

 

 

 

 

 

その世界で、自他企業問わず知られる俺が居る。

 

 

 

 

 

 

俺そのものの、誰もが知りたがる価値観が在る。

 

 

 

 

 

それを、言葉にしてメディアに伝える俺が居る。

 

 

 

俺を見て、感動する人が居る。人達が居る。

 

 

触発されてまた新たな物を生み出す人が居る。

 

俺が刻まれた時代が在る。

 

俺の事を理解されて居る。

 

俺がこの世界に必要になって居る。

 

俺がどういう人間か、皆わかっている。例えわからない事があっても清濁構わず知ろうとする人ばかりいる。

 

 

 

 

 

知られる事に苦悩する贅沢な俺が、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

居て欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

居て欲しいなぁ、って、めちゃくちゃ思う。

 

 

 

めちゃくちゃに思い過ぎて、腰の重荷がもう持ち上がらない。持ち上げた事もない。ある程度の重さなら立ち上がれは後はなんて事はないが、きっと立ち上がるのすら精一杯で、立ち上がってもまたすぐに尻餅を突いてしまうのだ。

そう思うと、持ち上げる気すら起きなくて、終ぞ今まで一度も持ち上げなかった。

少し降ろそうと思っても、腰に付けた時、なんでもかんでも乱雑に付け過ぎて、絡まって取れない。

降ろして一つに集中したいのに、できない。

休日にやる事と言えば、時折付いている荷物に触れてみて、その質感を確かめるくらいだ。

なんなら文章をこうして書いている今も、結局どこにこれを落ち着けたいのか分かっていない。

ただいつも、知って欲しい。俺を知って欲しい。俺を知ってもらう為の表現は一番何が良いのだろうと考える。

知って貰った上で理解してくれるのはどんな表現方法なんだろうと考える。

文字では伝えきれていないもどかしさと、文字の魅力を活かしきれていない自分を、人の作品を見て良く思う。他の物でもそうだ。

あの何気ない描写も、後のシーンの為のピースで、

あの意味のわからないと思っていた歌詞も、人となりを良く知るファンからしたら一つのメッセージで、

ただ聴いていたメロディも、緻密に組み込まれた音や楽器の組み合わせで、

全部全部今ある作品達は俺の想像を遥かに超えている。

近しい人間が表現する何かであっても彼ら彼女らのテーマがある。

そのテーマとは一体全体自分は何だ?

俺自身の主題を決めずして、どうして表現が生まれようか?

そもそも俺にはやりたい事なんて無いんじゃなかろうか。

 

……実際には、与えられた休日が終わる事は悲観すべき事ではない。

与えられた休日が無駄に終わる事のみを悲観している自分が一番矮小である事を悲観すべきなのだ。

気付くべきだ。何もしなかったのではない。何の為に何をするかすら分かっていない癖に、腰が上がるわけがないのだ。

 

よく見たら、俺には上げる腰も無かった。

重荷なんて、最初から一つも付いていなかったのだ。

確かに絡まった荷物が沢山周りにはあるが、それらは俺の身体とは繋がっていなかった。

 

それを見て、慌てて繋げようと手を伸ばしたが、こんな細い手では重たくて持ち上がらないし、付けて踏ん張る為の腰はどこをどう見渡しても無い。

 

ベッドの上方には、自分で描いた夢の落書きが天井にある。起き上がれないが故に仰向けの自分の景色はいつも夢の自分だ。

 

 

残念ながら、休日は終わらない。