名は体を惑わす
私の名前は少々変わっている。
両親曰く、主に父親曰く、「初めに生まれたのが長男でも長女でも、漢字を変えて同じ名前にするつもりだった」と言う。
実際どちらかと言うと女の子寄りな名前で、名前に当てる漢字二文字の、二文字目の漢字の人偏を付けるか付けないか、その一点のみで男女を区別し、どちらの性にも対応しようとしたらしい。
本来、この名は長女に付けられるべきだった。
しかし数十年前、私より何歳年上なのかもわからないが、お腹に宿った私の姉は、産まれる前に死を迎えた。
《長男でも長女でも付けるつもりだった名前≫
《小さい頃、よく女の子の名前と間違われていた記憶》
《妹が生まれる前からあった女の子のフィギュア》
当時この辺りの事実を知った時は、妄想や考え事が好きな私にとって、これほど偶然な程にピースが合う出来事が、まさか自らの出生に潜んでいたとは思いもしなかった。
人偏による違い、と言うのもなんだか偶然にしては気分が悪い。
私の名前から抜き取られた人偏は、そのまま私の死んだ姉を表している様ではないか。
これは考え過ぎで、所謂「完全に作者は何も考えていなかったが、考察をした受取り側によって複雑なバックグラウンドが生み出されたパターンの作品」の様な物なのだが、
偶然でもここまで繋げられるのが一番気持ちが悪い事だと思う。
私の性格や、考え方も、違う名前で生まれてきただけで違ったかもしれない。
体を表す名は、人間の生活に寄り添っていた自然や動物が、その性質が判明してから名付けられたから体を表すのだ。
人間というものは、その個人名は名前の様に生きてくれる事を願っていたり、名付け側の好みで付けられる。
本人ではなく、名付け親の意志が反映されている。
名の体に惑わされ、自分の本質を見失う人間は少なくないのかもしれない。